2011年5月19日(木)16:30〜絵画道場vol.33「三輪田めぐみの作品をめぐって」が展示会場にて開催されました。
会場では下記のレジュメが配布され、その内容を元にディスカッションが行われました。
『 三輪田めぐみ ーnudeー 展
私はこれまでヌードが好きで女性のヌードを描いてきました。ヌードの特別感や女性の体のラインの美しさに惹かれ、作品制作のモチーフとして扱ってきました。これまでの絵画や写真などの芸術の歴史の中でも女性の裸は多く扱われ、美の象徴としての女が受け継がれてきました。しかしその美しさとはプロポーションなどのヴィジュアル的な面が多く、描かれる女性の感情や性格・アイデンティティーなどの中身が抜け落ちたものが多く出回っているように感じます。そしてその中身のないヴィジュアルは男性の目線から見て美しいもの、欲求を満たすものという価値観によって作られているのではないでしょうか。女というものを男によって作られたイメージや価値観から描くのではなく、女が女を描くときどのような表現になるのか自分自身の性と向き合い探っていきたいと思っています。
<シンディ・シャーマンが70年代の後半に《アンタイトルド・フィルム・スティル》でやんわりと、かつ強烈な風刺の毒をもって鮮やかに描き出したのは、「女」のイメージの虚像性であった。彼女は「古き良き」50年代のハリウッド映画にありがちなヒロインに自分を擬した。男が作り上げた女のステレオタイプを意識的に演じて、「女らしさ」と一般的にとらえられている女性像のステレオタイプの嘘を暴き出している。それは傷つきやすく、はかなげで、常に何かを待っている受け身の女性像である。誘惑するものとしての女性像であり、支配される者としての女性像であり、被害者としての女性像である。男が女にこうあれと望み作り上げ、そしてその神話の創造に女も諾々と加担してきた女性像である。シンディ・シャーマンは、女が意識的にも無意識的にも、日常的に装い演じている「女らしさ」は、女が装い、演じることでしか現実にはあり得ないということを、男の論者さえ巻き込む巧みさで、表したのである。>
笠原美智子 著 「ヌードのポリティクス(女性写真家の仕事)」より抜粋 』
展示は全てヌードですが、作者が男性に感じる嫌悪感をマジョリティな視点で描いたものと、そのようなイメージを介さず描かれたもので構成されていました。
ディスカッションでは、以下の質問が作者から参加者に投げかけられました。
● 女らしいとはなにか。
● 「女を演じる女」と「女を演じていない女」→女といえるのか?
● 女は男の対としてのみでしか語ることは出来ないのだろうか
→女が存在する意味とは?
主に「女」や「男」の作られた「イメージ」について多くの意見が飛び交う中、作品とともに作者自身のテーマに対する立ち位置が変化していることが明らかになりました。
作られたイメージを介して「性」を問いかけるのではなく、作られた「イメージ」自体を取り払った先にある本質を知るための作品へ、意識の変化を作者自身改めて確認する場となりました。
11/05/24