千葉県立佐倉南高校の美術鑑賞授業 2 「生徒のみなさんへ」
「私(宇野)から佐倉南高校のみなさんへ」
大竹先生から、授業で私の作品を観てもらった時の皆さんの感想をまとめたプリントをお送り頂き、皆さんの感想を興味深く読ませていただきました。
皆さんは普通の高校生で美術評論や作品制作のプロではないわけですが、頂いた感想はそれぞれ非常に正確に、また本質に迫るところを感じ取って観てくれていることに、驚きと喜びを感じています。
作品にはそれぞれに(あるいは複数のまとまりで)表現する目的や追い求めたい真実、伝えたい事柄を持っています。私達はそれらを、一般的に「コンセプト」という呼び方をしています。
平たく言えば作品の「ねらい」、制作における重大な「動機」、作品を制作するにあたって「自らに課した制作システム上のルール」ということになります。もう少し踏み込んだ言い方をすると、「作品を通して他者へと伝える『自分なりの哲学』、『世界を理解するための切り口』をどのように持つのか、ということを自覚すること」でもあります。
個別の作品に関する予備知識や情報を持たずに、自分自身の眼で、これだけいろいろなことを感じたり楽しんだりすることのできる皆さんですから、その作品の「コンセプト」に触れ、それを理解することで、より深く目の前の作品と関わる事が出来るようになるだろうと思います。
このことはひょっとすると、評論家や学者による作品解説の言葉を鵜呑みにして「これは○○を表現したもの」と、暗記科目の試験勉強のように知識の蓄積をしていくことと似ているように思ってしまうかもしれません。しかし実は「コンセプトに触れる・理解する」ということは、それとは本質的には大きく異なることです。
何よりも「コンセプト」や「表現」は保証された正解や価値を示そうとするものではありません。
真摯な「思考」や「意思」・「想い」の切実な提示・問いかけであるのです。それに対して誠実に向き合ってみて欲しいという気持ちが「かたち」になったものなのです。
作品に向かい合える気持ちや何らかの引っ掛かり・興味を持てるということは、既にそこで何かの共振作用のようなものが起こっている、そのことに気が付いているということなのだと思います。
そこでもう少し踏み込んでみて「何がそうさせるのか」を考えてみることが「コンセプトに触れる・理解する」重要な入り口になっていきます。
そしてそれは皆さんの心と人生を、より豊かなものにしてくための力を身に着けることにつながる大切な「感性」を、自ら見つめる行為に他ならないのです。
私の作品のコンセプト、作品に共通して考えるベースとなっているものは、「ズレ」によって世界を見直すこと、そこに存在する「気配」とも言うべき「実体の無い感覚の存在感」を表していこうということです。私が求める「真実」は、多面的に観察するといったようなことを超えた「ずれ」「ずらし」、意味や価値観の常識を少し歪めることによって垣間見える「不安な瞬間」にのみ存在していると感じています。そして私はそれを「美しい」と思っています。
その「美しさ」は、見た目の形や色彩の見事さといった「きれいな」ものではないかもしれませんが、それをこそゆるぎなく美しいものだと思ってしまうのです。
私はそれを、そういったモノゴトの感じ方を、極端に言えばある種の科学的な方法によって数式化することが出来ないかという興味をも持って作品を作っているのです。
皆さんの感想の中に多くあった「何が描いてあるのか分からない、けど・・」という思いは、私の、あるいは他の現代美術作家の作品を楽しみ、理解するうえで、非常に重要な入り口であると思います。作品の中に具体的な分かりやすい形・いわゆる写実的な、または記号的な要素による説明がなされていないことで、知識による理解力に先導されない「感性」の扉が開かれて、そこから本当の意味での「観る」こと「感じる」事が始まっていくのです。
実際に皆さんの感想には「何が描いてあるのか分からない、けど・・」と、何か具体的な物が説明されてはいないようだけど「なんかかっこいい」「不思議な空間みたい」「何かが潜んでいそう」「変、だけど面白い」と感じてくれています。その言葉は、当たり前で何ともない一言のような気がしますが、とてもは重要なことなのです。実はその瞬間には皆さんはもう、感性の扉・第3の眼を開き始めているのです。
「レインボーブリッジみたい」「建設現場みたい」「大都会を上から見た感じ」「建物とか水溜りとか空とかがある」「空間の奥行きが深い感じ」などのように、自分自身の持つイメージと作品から受ける感覚を、比較したり摺り合わせたりしながら、自分の中に生まれた感覚や感情を手探りで確認していこうとしています。そして「狂気的な雰囲気でありながら、どこか悲しいような不思議さを感じ」たり、「4次元を感じ」たり。「ごちゃごちゃしてわけのわからなくなった現在の社会や世界のように感じた。色彩はその世界で様々に染まる人間のようだ。」と、ひとつの理解がなされ、そこから何かしらの感覚的な共振が起こりつつあるのではないかと思います。そこで受信した感覚の揺らぎを見つめ、見守ってあげるとことによって、その人自身からも新たな共鳴信号が出されていくようになる。そう思います。
作品の中の、何かの構造物のように見える赤い線は、ズレている世界を象徴的にあらわしています。
一見正しいパースペクティブ(線遠近法)のように振舞っている線たちは、実際には正しい構造を持っているわけではありません。どこか歪んでいたりちゃんとにつながらなかったりしています。ですから、建物のようでありながらもただの赤い線でしかないといった二つの側面を持っています。
もし、興味を持ってもらえるのなら、次の機会には私の具体的な制作方法などについてもご紹介したいと思います。
(2007.11.17)
10/06/15