Landscape of Fragment
断片の風景。 直訳すればそうなるのだろう言葉を今回の個展のタイトルとした。
一部分だけしか見えない絵画を目の前にした時、あるいは目にしている作品がそれの全体像ではなく、さらに広がる画面の一部なのだと気付いたとき、絵画の全容は観るもののイメージによって無限の可能性をもって広がっていく。
この展覧会では、それを積極的に取り込んだ制作・展示を行っている。
通常は会場壁面の中心に展示されるはずの作品は、ここでは壁面の隅に、天井の縁に、床に、ぴったりと寄せて展示されている。
展示空間の中で実際に見えている画面がその作品の全体ではなく、壁の奥に、天井の上まで、床の下へ、それぞれ続きがあるかのように感じて観てもらえるだろうか。見えていない、その奥の隠された(埋め込まれた)画面を、それを含めた絵画全体をイメージしてもらえるだろうか。壁の奥に続いてあるだろう絵を、天井のずっと上まで、床下のフロアまで続いている絵の一部をこの場で見ている、吹き抜けの空間をフレーム越しに眺めるような中空に居るような浮遊感を感じてもらえたら・・・。
その時には絵画は観る人の想像力に支えられながら、イメージも、スケールも、その度ごとに変化しながら新しい感覚を呼び起こしてくれるだろう。そして、展示の土台でしかなかった強固な不動の部屋の壁が、緩やかな浸透性を持った表皮のような可変の仕切りに感じられてくるのではないだろうか。壁の表面が波打ち際の揺らぎにも似た流動性・柔軟性を持って、部屋の空間が微妙に異質のものへと変化していく。
部分のみによる展示で作品は、絵画は成り立つだろうか。
そんな事を考えながら制作をはじめたような気がするが、壁を少しだけ操作して空間を作り変える、徐々にそういうことに意識の中心が向かっていたように思う。
そんな展示空間を私自身が一番楽しんでいるのかもしれない。
2009年9月
展示風景。ギャラリーは3つのブロックに別れている。
絵画の部分を見る。
実は画集などでは解説の為の部分拡大図を見慣れているし、自分自身の作品でも仮に立てかけて重ね置きした作品や、折れ曲がった雑誌の写真、画像編集中のコンピューター画面など、そういう場面には実はかなり多く接している。
作品のあり方としてそれがすごく気になりだしたのは、コラボレーションの作品を再展示した時のふとした思い付きがきっかけだった。
それは、平面作品(和紙)を展示した壁面全体にテーピングによるインスタレーションを施すといった作品だった。
展覧会終了後には平面作品上のテーピングは(はがれないので)そのまま残るが、展示期間中にはあった壁に直接貼られた部分のテープが無い状態になる。壁全体から和紙部分だけ・壁の一部を切り取ったような事になる。
再展示の際には、全体を再現しようと思っても、壁に直接作業されたテーピング(ドローイング)はもう無い。
だから、その切り取った壁を別の壁に移植するような、不思議な感覚を抱えた展示になる。
だったらいっそのことその部分は無いまんま、見えない部分は壁の中に埋まってしまっている事にしよう。そんな思い付きだった。
たまたま展示作業日に会場に行く事が出来ずに、展示の指示書だけを他人にゆだねたのも幸いしたのだろう。(ちゃんとに額縁がついた絵の隣りにそんな展示をしてしまう気まずさを、まったく意識せずに済んだ。)
部分としての絵を描く。
この制作は意外なほど苦しんだ。実際に巨大な絵を制作して、その一部をトリミングして展示するのではなく、「部分として全体を制作する」のがこんなに大変だとは思わなかった。
要は構図の悪い絵を描くと言う事になるのだから。
しかもただバランスが悪い、いわゆるコンポジションのアンバランスさではなく、すてきな全体を感じさせる部分を、全体図として制作する。
まともな一作品を構想してから、その部分を描くのではどうしても単なる部分になってしまう。
それがなんとも、むずがゆい、難しい仕事だった。
オープニングパーティ。ここのギャラリーのオープニングパーティは豪華なんですよ(^^)v
遠くからもたくさんの方が来てくれました。ありがとうございました。
そういえば、会えなかったけど卒業生の奥本君も、遠くから来てくれました。ありがとう!
パーティーの合間にギャラリーの前庭に出てみると・・・
なんということでしょう!といった感じの、きれいな夕焼け空。
今回の特別出品作品。息子の夏休みの工作。
・・・・・・・実はこれが一番評判が良かった。
09/12/03