表現の原点・・・
ほんの小さな子供でも、鉛筆を持たせてみると、壁や床に向かって夢中で線を描き続けます。その、行為や痕跡を楽しむ姿を見ていると、「描く」ということも人間の本能としてもともと備わったものではないのかと驚かされます。
確かに私たちの意識の中には、いろいろな約束事にとらわれずに線を引きまくったり、色を塗りまくったりしたい衝動が常にどこかにあります。
私達はその本能的な行為を芸術表現として行っていこうとしているわけです。
そこには、本能の理性的な開放に加えて、新しさと普遍性をもった造形言語による説得力が必要となります。それらの総合的な力量が、感性であり、観察力であり、表現力と呼ばれるものなのではないかと思います。
そして、描くことによってのみ立ち現れるリアリティーを求めていくことが絵画の楽しさであると思います。
そのような絵画の世界を皆さんと一緒に探求していきたいと思います。
<2002 大学案内>
07/05/19
表現の原点!?
まだ小さい子供の、カタコトでの身振り手振りを交えた言葉に、はっと核心を衝かれた思いをすることがあります。
少ないボキャブラリーで知っている限りの単語を駆使して、また時には新しい言葉(の様なもの)を創ってまで伝えようとする様子には、驚くほど感動的で、強い、詩的な言葉(もの)があります。
そこには「表現」のもつ、大きな力の原点が潜んでいるように思います。
ここ(京都嵯峨芸術大学)での4年間を、油絵の具で絵を描くことをベースに置きながら、何を、どのように見つめ、何が見つけられるのか、何を伝えたいのか、そのために何をするべきなのか、をじっくりと考えながら過ごす、厳しくも楽しい場にしてもらいたいと思います。
<2004 大学案内>
07/05/19
受験生の頃
受験生のとき。どうしても思うように石膏デッサンが上手く描けない。先生の「君はちゃんとに見えてみてない。」のひとことに、「そうだ!きっとめがねの度があわなくなってきているに違いない。そういえば遠くの細かい字もぼやけるような・・・。」と、目からうろこが落ちた思いで、その日のうちに恐ろしく度のキツイめがねを小遣いはたいて新調した。
キツ過ぎるそのめがねは目が回ってしまうので日常生活には不自由だったけど、いざデッサンをするぞという時には、石膏像の隙間の細かいチリや傷まで克明に見える!!
デッサン用秘密兵器として(なぜか)温存し、入試本番で満を持して使った。・・・のだが、当然のように悲惨な結果に終わった。・・・真剣だったのに。
「観る」ことと「見えてる」ことの違いがわかったのはずっと後のこと。絵を描くにはもうひとつの眼が開かなきゃいけないんだとわかった。
そのときのめがねは今も引き出しの隅にあるのだけど、かけると今でも目が回る。
07/05/19
ハンバーグ
3歳のこどもが「はんばあぐ、どーじょ!」と差し出したその手にあったものは、セロテープを丸々1巻使った半透明のそれらしい形のかたまりだった.
初めてセロテープというものを手にした彼にとっては、『貼付ける為の道具』という我々の常識概念など想像力の妨げになどならない.考えてもみなかった造形素材へと転用させて、ステキな『はんばあぐ』を創ったのだ.
私もこんな風にものつくりがしたいと思うし、この大学で出会う学生達からもこんな驚きを貰いたいと思っている.
<2005 大学案内>
07/05/19
その先を見つめて
現在私たちを取り囲むあらゆる「表現」が、内向きに、干渉無用の個人的な問題になっていく、あるいは表層の記号として現実から浮遊していくそのまっただなかで、どっぷりとそれに浸りながらも思考し続けることだけが、ある種の普遍性を持ったホンモノの「表現」となりえるのだろう。
目先のことのその先を見つめていこう!
<2006 大学案内>
07/05/19
失敗作
責任ある思い切った失敗作を!
芸術表現をしていく者にとっては制作する作品とそれに関わるすべてのことにしっかりと責任を持っていくということが何よりも大切じゃないかと思う。それがやがて、表現というレヴェルでの感性とか個性とかいうものの核心につながっていく。
たぶん、何かを創っていく過程で無駄なものなんてひとつも無いんだろうと思う。下手なデッサンでも、思い通りに出来上がらなかった失敗作でも。だから、小奇麗にまとまったものを要領よく作るより、むしろしっかりと、思い切った失敗作を作って欲しいし、それを大切にして欲しい。それを心から楽しみながら。そのほうが学ぶものが多いんじゃないかとも思う。
何かをモノにできるチャンスっていうのは周期的に平等にやってくるわけではないから、それを逃さない事が大切だ。そのためにも、いつでも何かを吸収しようとする貪欲さ、柔軟さ、素直さを持ち続けることが必要だし、それも重要な才能だと思う。
学生達の制作をみていると、やはり、そういう時期には自然と集中力が高まっているし、感覚にピシッと裂け目を入れられてしまうくらいのパワーに溢れている。そんな時はその学生の素朴な思い違いや予想外の画材の使い方みたいな、なんてことのない、欠点になりそうなことまでが妙に説得力をもって、新しい価値観への展開の可能性に感じられたりする。実感を持って制作することの強さを感じる一瞬だ。
学生達にはここで経験するであろう、それらの積重ねを基礎体力として、作品創りを続けていって欲しいと思います。
07/05/14
学びのポイント
油画分野 学びのポイント
point1:
思考力がポイントです!
何故描くのでしょうか?どうして描くことが芸術表現として成り立つのでしょう?描くということの本質を考え、追求することを通して、絵画表現を学びます。明確な制作意図を持ち、それを自分の表現として展開していくためには「考える力」が不可欠です。「思考力を伴った造形」をコンセプトに多彩な教授陣が指導にあたります。
point2:
プロセスがポイントです!
テーマに対して、どのような切り口から、どのような手法を用いて、どのような表現をしていくのか。各自の個性と発想を活かした作品完成までのプロセスを重視した指導と、展覧会形式による作品発表や講評会、学生によるプレゼンテーションやディスカッションなど、あらゆる方向からのアプローチによって密度の高い実習を行っています。
point3:
リアリティーがポイントです!
古典絵画の技法から現代美術の手法まで、その時代・社会の思想・背景を踏まえながら学び、体験することによって、美術史の流れを肌で感じることの出来る実習カリキュラムを構成しています。それらの経験が各自の感性と結びついて、新たな、オリジナリティー溢れる、リアリティーに満ちた造形表現に結実していくのです。
07/05/14
造形学科 扉エッセイ
「いま、京都(ここ)で、造形(つく)ること」
何かを創造するということは莫大なエネルギーを必要とすることです。
情熱や感性はもちろんのこと、思考力、集中力、技術、知識、などあらゆる要素が「創造する(つくる)」という目的に向かって激しい融合反応を行いつつ、「表現」のエネルギーへと凝縮されていくのです。
エネルギーを産み出す基となるそれらの要素は、現在の私たちの力だけで創りあげたものではなく、長い年月の思考や技術、哲学や教養、環境や慣習などの蓄積の上に成り立っているものでもあります。そしてそれは「伝統」「文化」とも呼ばれます。
その伝統と文化が色濃く現在進行形で存在感を持ち続けるここ京都の地に、激変する時代の現在(いま)を想う新しい力が、今までにないものを創造しようと集まっています。
いま、ここに、常に語りかけてくれる伝統と文化と自然の中で現在(いま)を実感できるエキサイティングな「表現の現場」があります。
いま、ここで、溢れるエネルギーを注いで造形(つく)る事は、表現する行為であると同時に、ものを観る眼と思考の技法をしっかりと身につけることでもあります。そしてそれは、自己の足元をしっかりと定め、未来を見つめ、現在を生きる力となるのです。
そのために、いま、ここに、5つの専門分野と、それらを支える造形基礎・副専攻・分野変更という独自のシステムがあります。
<2006 大学案内>
07/05/14