研究室スタッフ紹介

宇野和幸
宇野 和幸  uno kazuyuki
  • 「気配としての実在」を具現化すること、「ズレが産み出す実感」の違和感を炙り出すこと

油画研究室展「思考する視線」Vol.4

これまた、さかのぼってのUPとなりますが・・・・。

隔年で開催している研究室教員による作品展「思考する視線」。

展覧会会場の様子です。


左:イチハラヒロコ先生の作品 右:入佐美南子先生の作品

イチハラ先生は「コトバ」による作品です。言葉なので当然、読みます。読むのですが、詩を読むようには読めない。というか読ませない。しかも、音(イントネーションや強弱)を伴わないので、同じ「コトバ」でも思い描く状況はいくつにも広がっていくのです。
前回のこの展覧会のDMはイチハラ先生の作品を使わせてもらいました。そのときの作品は「美大の 教授の 作品か」というものでしたが、コトバの後にそれぞれが心の中で勝手に「?」や「!?」、「!!」、「・・・・」をつけて読んでいたようです。一見当たり前のような、たいしたことはないようなことかもしれませんが、実に不思議な、妙に納得させられる体験でした。
でも、コトバの意味や読む行為ももちろん重要な要素ですが、書体や配置などにきっちりこだわるイチハラ先生を見ていて、絵画(平面作品)なのに「読まされてしまっている」のだなぁと、その作品の持つ力と絶妙な作品構造にあらためて感動しました。


中野庸二先生の作品


堀井聰先生の作品


山本直木先生の作品

山本先生の作品は、写真ではちょっとわかりにくいだろうと思います。写真に撮りくい作品(インスタレーション)です。
デジカメで撮影後加工という画像で、何とかその雰囲気は伝わるかなとは思いますが・・・。
暗くした小さな室内に弱めの白熱電球、ガラス板に砂糖を使って描かれた肖像画がかすかに見えています。壁に立てかけられている4枚の砂糖肖像画。タイトルは「四者会談」・・・・・なるほど。手を抜かない創り込みが、ガラスのシャープさ・硬さ・脆さを際立たせ、砂糖が甘さ・儚さ・形成(あるいは崩壊)過程としてコントラストを持たせる、作品にシャープな緊張感を与えています。
・・・・・学生達の作品って手抜きや横着なことが目立ちすぎるよなぁ。
こういう緊張感のある作品を創ってほしいものだけどなぁ・・・・・でも、みんながそうなるとちょっと鬱陶しいかな・・・?!

09/09/30

Kelly・紅葉・大覚寺

だいぶ前に書きかけでほったらかしておいた記事なので季節感が変ですが・・・。

友人のケリー・デッドワイラー氏が来日した。
今回は、大学での講演とワークショップがメインだ。
ケリーはアメリカ・サンノゼでの展覧会に招待してもらったのがきっかけで親しくしている、カリフォルニアのサンタクララ大学の教授でもあるアーティストだ。

彼は今までも何度か来日経験があるので、ある程度は日本に慣れているが、今回の来日はせっかくの秋の京都なので、嵐山周辺の紅葉見物+大覚寺での宿泊体験をプライベートタイムの目玉企画として計画した。
大覚寺での宿泊については、門限が早い、早朝の勤行に参加しなくてはいけない、など特殊な要素もあるし、彼は日本語が出来るわけではないので、私も一緒に泊まる事にした。ケリーはもちろん、私も初めての大覚寺宿泊。・・・・・・貴重な体験でした。

朝5時過ぎに大きな鐘の音で起床。この音がすごい!どんなに疲れていても絶対に起きる。目が覚めずにはいられない。
朝が苦手で1限の授業に出られない学生用に宿泊通学プログラムとかを作ればいいのに。それともオリジナル目覚まし時計のアラーム音として製作販売、またはアラーム用の着メロとして配信するとか・・・・。


朝、勤行を終えて大沢の池越しに日の出を見る。感動的な景色だ。

「はるはあけぼの。やうやうしろくなりゆくやまぎは・・・・」季節は違うが、ここからの眺めは近代的な建物などが一切見えない。1200年前と同じ景色が、冷たく澄みきった空気をまとって目の前に広がっている。
朝の勤行を終えて日の出を、池の表情が次第にほころんで生命感が満ちていくさまに静かに立ち会う、こんな経験を、嵯峨芸の学生全員がするべきではないかと思う。


大沢の池・秋の景。



ケリ-と。

*ケリーの講演ワークショップの様子は、GalleryページにUPされています。

09/08/17

奈良・飛鳥寺

少し前の話になるが、奈良・飛鳥へ行った。
実はこのあたりまで来たのは大学3年生以来、実に二十数年ぶりのことだ。



私のいた大学では、3年生のときに「古美術研修旅行」(略してコビケン)というのが必修授業として設定されていて、油画科であろうと彫刻科であろうとデザイン科であろうと、すべての学科の学生が春から順番に京都・奈良の寺院や遺跡など、芸術・文化・歴史遺産をめぐる、2週間という結構長期の研修旅行があった。(今の学生たちも変わらず古美研があるようだ。)
油画は人数が多いためA班・B班の2期に分かれていた。私はB班で、5月末くらいの時期だったろうか。

旅行の期間中は、毎朝奈良公園近くにある研修施設から専用バスに乗って、日が暮れるまで仏像や襖絵を見て回る。作品の力に圧倒されるせいもあるのだろうが、日が経つにつれて疲れが溜まり、疲労が抜けずにぐったりしてくる。そして行程が半ばを過ぎたころには、恥ずかしながらお腹いっぱいの“見飽きた状態”になってしまった。だんだん「襖に絵が描いてあるなぁ・・・。仏がいっぱいだなぁ・・・・。」と、だらだらと流し見るだけになってくる。そして「まあ、京都・奈良くらいいつでも来られるし、また今度ゆっくり来て、数を絞ってじっくり見よう。そのほうがしっかり見られるし、きっとそうしたほうが勉強になるな。」などと、言い訳半分に思っていたものだ。
後日京都に来る機会があった時に、おぼろげな記憶を頼りに「あそこに行ってあの襖絵を見よう・・・」と目的の寺に向かったのだが、立入禁止だらけで古美研のときに入れたエリアの1/3程度も見られない。「そうか!あの時はかなり特別な待遇だったんだ!今は単なる観光客の1人でしかないんだ!!」と、そのときになって初めて古美研という授業のありがたさが分かった。

同級生や後輩に展覧会などの折に会うと時々古美研の話しが出ることがある。
どうやらほかの人たちも同じような体験や思いを持っているようで、「あの時もっとよく見ておけばよかったよねぇ」という言葉が必ず出てくる。

京都の大学に、しかも大覚寺が母体の大学に勤めたら、古美研のような特別な状況が日常的に待っているような気がしていたけど、それはそれで勝手な幻想だった。学生時代の古美研体験は、時間が経つほどに特別さが増してくるようだ。
でも、ありがたいことに、大覚寺に関しては大学関係の用事もあっていろいろなところに足を踏み入れることができる。立入禁止の札を越えて一般の観光客では入れないところへ向かう瞬間には、古美研にまつわる思い出がシュンと一瞬で頭の中を駆け巡るような気がする。そんな時は心の中で、「やったね!」。ちょっと勝ち誇った気分になっている。


飛鳥大仏。この表情が気に入っている。写真撮影OKなのも嬉しい。(^^)v


聖徳太子像。「日出処の天子」の厩戸の王子でイメージが出来ちゃってるので・・・(-_-)



09/08/17

永島千裕展オープニングにて

卒業生の永島千裕さんの個展(トーキョーワンダーサイト本郷)に行ってきました。


もこもこの「ひつじファッション(!?)」の永島さんと。

初日だったので、ギャラリートークやオープニングパーティが行われていて、たくさんの人で込み合っている感じ。
会場は3部屋あって、3人の作家がそれぞれの部屋で作品を展示している。永島さんは2Fの展示室で一番広い。

ふと「せんせい!」の声が。永島さんの声じゃないし(向こうで誰かにビールを注いでいるのが見えるし・・・)、「先生」がいっぱいいそうな場だったので、なんとなく「俺のことじゃないよな・・・」と思いながらも声のする方を見てみると、これまた卒業生の川畔さんが。その隣には日本画からメディアアートに分野変更した卒業生、坊野君が。
「あれっ?!」(・・・えーと、ここは東京だよな!?) 「こんなところで会うなんて。ねー。」
川畔さんはたまたま美術展見学で東京滞在中、坊野君は現在東京在住で活動中、とのこと。
2人とも、この油画研究室サイトの情報で「永島千裕展」をチェックして観に来たのだそうだ。活用されてるね!嬉しいね!


嵯峨芸4人衆で記念撮影。撮影はコレクターのK夫人。


ギャラリートークには参加できなかったのだけれど、そのときの様子を聞くと、某評論家と某コレクターの激論があってちょっと嫌な空気になっていたとか。永島の作品は単なるイラストだから飾る価値も必要もない、みたいな評論家の発言が発端だったらしい。それから場(というかその2人)がエキサイトして、予定時間を大幅に超えてのトークになったそうだ。

つまらない話してるなぁ。

でもまあ、場が盛り上がるような話ってのは、たいてい、本質に迫ることよりも枝葉の部分や周辺のあれこれの話が多い。
永島さんの作品がイラストと呼ばれる作品群と表面的なテイストの点で共通するものがあるということは、一目見れば誰でも気付くことだし、本人もその辺は十分自覚・意識してとっくに整理がついていることなので、本人にしてみれば「なにをいまさら」な感じだろう。作品の本質からは程遠い部分での騒がしさといったところではないか。ご本尊を拝む前に門構えでひっかっかってしまっているようなものだろう。

永島作品は、一言で言って「きもちわるい」ものだ。
それは描かれている形や表情が、爛れていたり崩れていたりという病的な歪みを持っているからではない。
気がつかないうちに化膿していく腫れ物を抱えてるときの、治りかけの擦り傷のジュクジュクしたところを触らずにいられないときの気持ちの、すわりの悪い落ち着かなさ、何かに突き動かされそうな衝動にうまく反応できないときの、あのきもちわるさ。それがいい。
それが、いわゆるイラスト風の明快な描写と色彩や繊細な線が、効果的なコントラストとなって表現されている。もし、ごてごてと盛り上げるような油彩技法で描かれていたら、古臭い陰湿な気持ち悪さが強く出てしまっているかもしれない。
そういう意味では、あのイラスト風の表現手法は重要な意味を持つともいえる。
「イラスト風だからだめ!」じゃ、話になんないよなぁ。

08/10/29

「inter infiltration 相互侵蝕」 展 2

巷房3F会場の壁面を使った作品です。



私の作品(和紙部分)を展示した上に、吉岡さんがOHPでドローイングをプロジェクションします。
映った影(拡大されたドローイング)を、彼の「テーピングスタッフ」3人がなぞりながらテープを貼っていきます。











この後、画面の一部にアクリル板を重ねます。この部分は私の仕事です。
部分的に、マスキングされた細い赤い線があらかじめ描かれています。


その上から、さらに赤いテープを貼っていくスタッフ。


吉岡氏とテーピングスタッフ+宇野


08/08/01


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