研究室スタッフ紹介

宇野和幸
宇野 和幸  uno kazuyuki
  • 「気配としての実在」を具現化すること、「ズレが産み出す実感」の違和感を炙り出すこと

美術鑑賞の授業(千葉県立佐倉南高校との交流)

10年以上の付合いがある作家であり、高校の美術教員でもある友人が、授業で使いたいということで個展会場で作品の写真を撮っていったことがある。
しばらくして、彼から手紙が届いた。
私の作品画像を使った授業の様子と生徒たちの感想をまとめて送ってくれたのだ。
さらに、彼からはそれらの感想に対して、制作者としてコメントを返して欲しいというひと言が添えられていた。

なかなか興味深い取り組みだったので、彼と彼の勤務する高校とその生徒たちに許可をもらって、ここに紹介させていただくことにした。
千葉県立佐倉南高等学校大竹英志先生、当時の1年生の皆さん、学校関係の方々にお礼申し上げます。 )


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「大竹先生より」

展覧会の時は作品を撮影させていただきありがとうございました。

授業の中でその作品画像を生徒に見せ、感想等を書かせました。
生徒の一言集をお送り致しますのでご一読いただき、それに対する生徒向けのコメントを送っていただけたら助かります。
生徒達にとっては、作家からのメッセージを聞くことによって楽しみが増幅することになると思いますので、宜しくお願いします。

1年生に3作家の作品を数点ずつ見せました。
事前に何も説明はしないで、ただ見せ、一作家または一作品を選び、感想等を書かせるという方法を取っています。
76人中24人が宇野さんの作品を選び、感想等を書きました。(宇野さんの作品を選んだ生徒は約三分の一でした。)



星空の作品(他の作家の具象表現による絵画)が受け入れやすかったようで、それを選んだ生徒が多かったです。人気投票ではないので少数派も大切だと話しました。
<星空>を選んだ生徒の感想は「奇麗だ」等、断定的な内容がほとんどなのに対して、宇野さんやNさん(植物をモチーフとしてミクストメディアによるドローイング的な作品を制作している女性作家)の作品を選んだ人は、疑問を投げかけながらも興味を持った内容が多かったです。
その興味はより高度な鑑賞への入り口なのだと思います。

私は、鑑賞教育をコレクター育成の教育であるとも捉えています。
形而上学のあるヨーロッパでは形而上学と一体になっている作品を解説する事が有効でしょうが、形而上学の無い日本では解説するより見て楽しむ経験をさせる事が有効だと思っています。
本物の作品を見せる事ができるならまた違った反応を得られるのでしょうが、スライドで見せるだけでも効果はあると思っています。私の授業を受講した生徒からコレクターが誕生するかは疑問ですし、結果が出るのは数十年後になりますので、気の遠くなるような育成計画かもしれません。
私なりに、高校の美術教師という立場から、国内の造形芸術活性化のために微力ながら努力しているところです。


川村記念美術館での鑑賞授業の様子

川村記念美術館に連れて行く授業は、同館増築工事のため今年度は3年生だけを対象としました。来年度からまた再開し、できるだけ多くの生徒を連れて行こうと思っています。

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「宇野和幸作品の感想」


 
1年B組(10月10日)

・ 独創的でいいと思った
・ あまり何が書いてあるのかわからないところが面白い。
・ 黒の中にピンク、黄、緑、青があって緑はたらした感じに見える。下の方が水が溜まっているように見える。
・ 三つ目ぐらいに出てきた絵がなんだか「レインボーブリッジ」みたいな橋に見えた。でもトータルで言うと、よくわからない構図が多くて面白いと思った。


1年D組(10月12日)

・ 黒い部分も、複雑な絵になっているようで、面白い絵だと思った。赤い線も何かを表していると思うけどよくわからなかった。凄く細かく見えた。
・ 何か不思議でちょっとよく分かんないところが良いと思った。それと何かカッコイイから好きですねちょっと怖いのもある。
・ 建設現場のように見える。



1年E組(10月12日)

・ 感想は「変」「面白い」です。No.2の作品(Hさん)とNo.3の作品(Nさん)はちゃんと物を描いているけど、No.1(宇野和幸)は何を描いてあるかよぉく見ないとわかんないとこが面白かった。
・ 赤い線が赤外線ではられた家に見えて面白かったから。
・ 大都会を上から見た感じに思えた。
・ 色とりどりで何か良い。
・ 不思議な空間というふうな感じで面白い。
・ 赤い線が空間の奥行きみたいだった。最初の絵は建物みたいな感覚だった。下の方が暗くて、上のほうが明るかった
・ 凄く謎感があるけど、赤線が立体的な感じがした。周りにはビルとかゴミとか、少し空も見えている感じがする。
・ 変な赤い線がいっぱいあった。何描いてあるかわかんない。


1年F組(10月15日)

・ ごちゃごちゃしてわけのわからなくなった現在の社会や世界の様に感じた。赤や黄色はその世界や社会の中で色々な色に染まっていく人のように感じた。
・ とても難しいけど、面白い絵だと思った。
・ 上下逆に見ると、何となく、手前が水溜り、中央に大きいビルがある感じで、周りが住宅地みたいに思った。
・ 何か居そうで良いと思った。
・ ごちゃごちゃしているから。
・ この電車の線はなかなか上手いです。


1年G組(10月15日)

・ 何描いているのかわからないけど、カラフルで一目見ただけで印象に残る。
・ 四次元を感じた。奥行きの感じが不思議な感じ。赤い線が全体に締まりを求めている感じで良かった。(見た後、数名が四次元を話題にしていました。時間を加えた次元などと。)
・ どれも赤い線が部屋の間取り図みたいに見えた。背景の色使いが少し危ない(?)というか、狂気的な雰囲気を感じられた。でもどこか悲しい様な不思議な作品だと思った。




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「私(宇野)から佐倉南高校のみなさんへ」

大竹先生から、授業で私の作品を観てもらった時の皆さんの感想をまとめたプリントをお送り頂き、皆さんの感想を興味深く読ませていただきました。

皆さんは普通の高校生で美術評論や作品制作のプロではないわけですが、頂いた感想はそれぞれ非常に正確に、また本質に迫るところを感じ取って観てくれていることに、驚きと喜びを感じています。

作品にはそれぞれに(あるいは複数のまとまりで)表現する目的や追い求めたい真実、伝えたい事柄を持っています。私達はそれらを、一般的に「コンセプト」という呼び方をしています。
平たく言えば作品の「ねらい」、制作における重大な「動機」、作品を制作するにあたって「自らに課した制作システム上のルール」ということになります。もう少し踏み込んだ言い方をすると、「作品を通して他者へと伝える『自分なりの哲学』、『世界を理解するための切り口』をどのように持つのか、ということを自覚すること」でもあります。

個別の作品に関する予備知識や情報を持たずに、自分自身の眼で、これだけいろいろなことを感じたり楽しんだりすることのできる皆さんですから、その作品の「コンセプト」に触れ、それを理解することで、より深く目の前の作品と関わる事が出来るようになるだろうと思います。
このことはひょっとすると、評論家や学者による作品解説の言葉を鵜呑みにして「これは○○を表現したもの」と、暗記科目の試験勉強のように知識の蓄積をしていくことと似ているように思ってしまうかもしれません。しかし実は「コンセプトに触れる・理解する」ということは、それとは本質的には大きく異なることです。
何よりも「コンセプト」や「表現」は保証された正解や価値を示そうとするものではありません。
真摯な「思考」や「意思」・「想い」の切実な提示・問いかけであるのです。それに対して誠実に向き合ってみて欲しいという気持ちが「かたち」になったものなのです。
作品に向かい合える気持ちや何らかの引っ掛かり・興味を持てるということは、既にそこで何かの共振作用のようなものが起こっている、そのことに気が付いているということなのだと思います。
そこでもう少し踏み込んでみて「何がそうさせるのか」を考えてみることが「コンセプトに触れる・理解する」重要な入り口になっていきます。
そしてそれは皆さんの心と人生を、より豊かなものにしてくための力を身に着けることにつながる大切な「感性」を、自ら見つめる行為に他ならないのです。

私の作品のコンセプト、作品に共通して考えるベースとなっているものは、「ズレ」によって世界を見直すこと、そこに存在する「気配」とも言うべき「実体の無い感覚の存在感」を表していこうということです。私が求める「真実」は、多面的に観察するといったようなことを超えた「ずれ」「ずらし」、意味や価値観の常識を少し歪めることによって垣間見える「不安な瞬間」にのみ存在していると感じています。そして私はそれを「美しい」と思っています。
その「美しさ」は、見た目の形や色彩の見事さといった「きれいな」ものではないかもしれませんが、それをこそゆるぎなく美しいものだと思ってしまうのです。
私はそれを、そういったモノゴトの感じ方を、極端に言えばある種の科学的な方法によって数式化することが出来ないかという興味をも持って作品を作っているのです。

皆さんの感想の中に多くあった「何が描いてあるのか分からない、けど・・」という思いは、私の、あるいは他の現代美術作家の作品を楽しみ、理解するうえで、非常に重要な入り口であると思います。作品の中に具体的な分かりやすい形・いわゆる写実的な、または記号的な要素による説明がなされていないことで、知識による理解力に先導されない「感性」の扉が開かれて、そこから本当の意味での「観る」こと「感じる」事が始まっていくのです。

実際に皆さんの感想には「何が描いてあるのか分からない、けど・・」と、何か具体的な物が説明されてはいないようだけど「なんかかっこいい」「不思議な空間みたい」「何かが潜んでいそう」「変、だけど面白い」と感じてくれています。その言葉は、当たり前で何ともない一言のような気がしますが、とてもは重要なことなのです。実はその瞬間には皆さんはもう、感性の扉・第3の眼を開き始めているのです。
「レインボーブリッジみたい」「建設現場みたい」「大都会を上から見た感じ」「建物とか水溜りとか空とかがある」「空間の奥行きが深い感じ」などのように、自分自身の持つイメージと作品から受ける感覚を、比較したり摺り合わせたりしながら、自分の中に生まれた感覚や感情を手探りで確認していこうとしています。そして「狂気的な雰囲気でありながら、どこか悲しいような不思議さを感じ」たり、「4次元を感じ」たり。「ごちゃごちゃしてわけのわからなくなった現在の社会や世界のように感じた。色彩はその世界で様々に染まる人間のようだ。」と、ひとつの理解がなされ、そこから何かしらの感覚的な共振が起こりつつあるのではないかと思います。そこで受信した感覚の揺らぎを見つめ、見守ってあげるとことによって、その人自身からも新たな共鳴信号が出されていくようになる。そう思います。

作品の中の、何かの構造物のように見える赤い線は、ズレている世界を象徴的にあらわしています。
一見正しいパースペクティブ(線遠近法)のように振舞っている線たちは、実際には正しい構造を持っているわけではありません。どこか歪んでいたりちゃんとにつながらなかったりしています。ですから、建物のようでありながらもただの赤い線でしかないといった二つの側面を持っています。

もし、興味を持ってもらえるのなら、次の機会には私の具体的な制作方法などについてもご紹介したいと思います。

(2007.11.17)


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「鑑賞教育についての私見」 千葉県立佐倉南高等学校 教諭 大竹英志 (2008年6月8日)

造形作品の制作と鑑賞

制作と鑑賞は美術文化の双翼です。制作と鑑賞が揃う事によって生きた文化になると考えます。
鑑賞とはルノアールやピカソなど評価が定まった過去の作品を見る事だけではなく、現在作られている作品を見て楽しむ事も鑑賞です。現在進行形の作品を見て、自分の感性で楽しむところに生きた文化があると言えるのではないでしょうか。

美術教育の役割

美術教育は制作に片寄っていると思います。私も初任から作品作りの授業ばかりを行ってきましたが、見る側を育てる必要性も感じていました。最近の実践から、鑑賞教育において知識や教養を教える事を第一にするのではなく、生徒自身が自分の感性で作品を受け止め、見る楽しさを経験させる事こそ第一にすべきであると考えるようになりました。見る側を育てる事も美術教育の大切な役割なのではないでしょうか。

作品の価値

  ニューヨークで開かれたオークションで日本の現代美術作家の作品が約16億円で落札されました。16億円に相当する価値は何なのか考えるとわからなくなってしまいます。造形作品の存在価値は見る事にあると思います。造形作品に向ける眼差しは西洋人と日本人とでは違うような気がします。日本国内に於いて、作品を作る人と見る人が生きた文化をつくり、その中で作品の価値を見出していく状況があっても良いのではないでしょうか。
  
 川村記念美術館 の取り組み(美術教育サポート)


川村美術館にて

川村記念美術館では10年ほど前から、アメリカの学者アメリア・アレナス氏の指導の下、鑑賞者が美術の知識教養にとらわれずに、作品と直接コミュニケーションをする対話型ギャラリートークを小中学生対象に行っています。私は2003年3月にこの取り組みと出会い、佐倉南高校が高等学校として初めて参加することになりました。

私の鑑賞教育の試み

2004年度から川村記念美術館の対話型ギャラリートークを授業に取り入れ、授業日課の中で川村記念美術館に行っています。現在勤務している佐倉南高校が川村記念美術館から最も近い高等学校である事と美術の授業が2時間続きなので継続実施できています。教育効果を上げるためには各クラス年1回は美術館に行き、本物を見せる必要性があります。
  
2005年度から川村記念美術館の美術教育サポート以外でも、パワーポイントを使い鑑賞の授業を行っています。1クラスにつき年間約10回行い、教科書や画集に載っている作品の他、知人友人の作品やDVDも使い、現在進行形の作品を多く見せるようにしています。
  
2007年度、知人友人の作品を使った鑑賞の授業で感想を書かせ、それを作者に送ってみました。その反応は意外なほど良く、作者全員が喜び生徒の感想文に感激してくれました。この事から、生徒たちが如何にうまく作品とコミュニケーションしているかがわかります。

このような授業から見る側が育ち、作り手と見る側が一緒になった、渦巻くような生きた美術文化の状況が誕生することを願っています。  


アトリエの大竹英志先生

08/06/18

私の空間


くつろげる場所ではない。ホッとするわけでも癒されたりするわけでもない。別に自分のテリトリーというわけでもない。けれどもどうしても惹きつけられてしまう、「私の空間」と呼びたいところがある。
解体途中の建造物、特に廃工場の中だ。

少し前に廃墟ブームというものがあった。
そこでは、廃墟も廃屋もごっちゃにして、ある種のノスタルジーや、怖いもの見たさの肝だめし的覗き見感、過去の遺物を発掘するかのような探検家気分といったようなもので語られることがほとんどだったように思う。
そういった意味での廃墟・廃屋への興味というのは、私にはまったくない。

余談だが、廃墟と廃屋とは似て非なるものだと私は思っている。
建造物の大小に関係なく、ただ手付かずで放って置かれただけのものは、単に使われていない建物・廃屋であるけれども、そこでの生活感や人間のかかわりの痕跡がオブジェ的なモノへと昇華されて、さらに環境や自然とのコラボレーションが絶妙に成り立っているものが廃墟だ。雑草や油と埃のかたまりや得体の知れない薬品やシミで彩られている、モニュメンタルな建造物が、廃墟だ。



廃工場、特にその解体途中現場がいいのは、もともと生活の場として設置された空間ではないので、生活としての営みの痕跡がほとんどないことだ。ひたすら武骨に機能的に、しかも人間的ではない無駄にあふれている。目的と用途に特化された構造が、感情の入り込む隙間のない絶対的な荘厳さを纏っている。
それらがその目的である機能を停止させられ、再利用できる機材や部品は取り外されて、素の姿があらわになる。用途を剥ぎ取られた油まみれの鉄骨ががっしりとそそり立っている。むき出しの骨組みが縦横無尽にひたすら合理的に張り巡らされ、意味のなくなった仕切りと役割を見失った金属の塊が、建物や道具としてではなくその存在を静かに誇示している。
それが解体途中ともなると、これから壊されていくのかそれとも組み上げられていくのか、どちらにも向かっていけそうにさえ感じさせられる。きっと古びたまま新たに建ちあがっていく為にひっそりとエネルギーを蓄えているに違いない、そう思わせる独特の生命感を孕んだ質感がある。

ほこりをかぶっているのがいい。油汚れがこびりついているのがいい。途中な感じなのがいい。植物に侵蝕されているのがいい。なにかが変色しているのがいい。錆がいい。永久に乾かないかのような水溜りがあるのがいい。何かが現れ出そうな奥行きの深い薄暗さがいい。音がないのがいい。
そこは決して心安らぐ場所ではない。異臭が漂い、きっと何か体に悪いものを吸い込んでいるに違いない。怪我でもして動けなくなって、ここから出られなくなっても、誰も気付かないかもしれない。もしかしたらここで遭難・・・!?。そんなこともなぜか、いい。

湧き立つ不安と予感と開放感と衝動とにもてあそばれながら、私はそこに立つ。
イタリアの田舎町の教会で初めてステンドグラスを見た、その見事なステンドグラス越しの光に抱かれて立った時の、あの感覚にどこか似ている。

一時期、自分の作品について、廃墟がモチーフだと言っていたことがある。
原初的な力強い構造体を画面の中に存在させたいと格闘していた当時のことだ。鉄錆を主要画材とし使いながら、ドームや大型船の骨組みのような構造をイメージしながら描いていたそのかたちは、後にコラボレーション作品を展開することになったある現代詩の詩人によって、廃墟を連想させる、いや廃墟そのものだ、と指摘され、気付かされ、自分の中で廃墟なのだと認識した。
具体的なイメージのよりどころがあるというのはありがたいもので、その後しばらくは廃墟をキーワードに制作を続けた。自分が創り出したいと思っていたものに、自分の外から名称なりカテゴリーなりを割振られる事には、深層意識での小さな拒絶感を伴いながらも、何か気の休まるような落着く感覚があるものだ。未知なる物を抱える不安に対して、安心感と制度的な認知が得られたような気にさせられる。



やがて、それこそ廃墟をモチーフに映像を撮りつづけている映画作家と、先の私と廃墟を結び付けてくれた詩人とで、コラボレーションワークのシリーズを展開することになる。
それは、私にとってもメンバーである彼らにとっても、最高に刺激的なものであった。そんな中で、「自分のコンセプトは画面に廃墟を新築する行為にある」と言い切っていたこともあるのだが、その後の廃墟ブームの影響もあってか、廃墟という言葉にしっくりとこないものを感じ始めた。というより、最初からあった小さな違和感・拒絶感が表に出始めたのだろう。
もともと廃墟に纏わりつく人間生活の痕跡や歴史的背景などにはほとんど興味がなく、また、最初に自分の作品がそう見られたときの新鮮さも感動もなく、単に説明しやすい便利な言葉として、ニュアンスの違いには眼をつぶって多用しすぎた反省もあった。今から思えば、「解体されつつある廃工場的な無機能構造物に対する憧憬に基いた、日常空間とのズレを表出させる試み」とでも言っておくべきだったか。それもまどろっこしい。わかったようなわからないような。
あそこに立った時のあの感覚。それが一番しっくりくる。



じつは、私にとって廃工場に感じる想いと同質なものを呼び起こすものがある。
それはクラシックカメラ、あるいは機械式の中古・ジャンク(壊れた)カメラである。
メカニカルで機能的で、どこか無理やりだったり大げさだったり見事だったりする機械的な連動、意外に単純で美しいシステム構造、ひたすら性能と生産性を求めた人類の叡智と職人の技の結晶。それを分解・解体しては、時に修理に専念し、時に解体しっ放しで眺めている。
というわけで、廃工場を探すでもなく、出会うでもなく、それでもその空間(と同質なもの)に浸りたいときには、中古カメラ屋に行く。馴染みの店主と話をしながら、1〜2時間ほどあれやこれやを見せてもらいながら、いじる。で、ほぼ必ず何かしら買ってしまう。それがささやかなストレス解消手段にもなっている。こちらは工場と違って思いたったらでかけていけるという手軽さと、自分のものとして手のひらに保有することが出来ていつでも味わえるという利点がある。
お手軽だということは、あまり良いコトではない。そう思いながらも、ストレスの数の壊れたカメラに囲まれながら、小さな「私の空間」に浸っている。

<「嵯峨芸術」2008原稿より>



08/06/16

ABLOVE(あぶらぶ=油部)ミニ同窓会

先日、大阪国立国際美術館での展覧会見学引率のついで(?)に、久しぶりに一部の一期生たちが集まる「ミニ同窓会」に参加してきました。



大阪近辺で仕事をしている数名だけでの集まりでしたが、楽しいひとときでした。
画廊で働いている人、絵画教室で教えている人、大学で助手をしている人、結婚を間近に控えて花嫁修行??中の人・・・。みんなちゃんとに社会人してるじゃん、えらいぞ!
普段の学生達とのコンパと違って、みんな平気でお値段高めの料理をたのむし、支払いはきちんとワリカン。先生の懐をあてにしない心掛けと、それが払える財布の中身があることに、妙に感心(?)したりして・・。



そういえば、1期生の連中は、「油画分野」という呼び名よりも彼らが勝手に作った「あぶらぶ=油部」という呼び名が気に入っていっけ。

最近は卒業後に、東京で活動する人も増えてきました。
次は、銀座あたりで「ABLOVE TOKYO 油画分野東京支部」開設記念身に同窓会でもやろうか!?
誰か企画を立てて連絡するように!

08/06/13

表現の原点・・・

ほんの小さな子供でも、鉛筆を持たせてみると、壁や床に向かって夢中で線を描き続けます。その、行為や痕跡を楽しむ姿を見ていると、「描く」ということも人間の本能としてもともと備わったものではないのかと驚かされます。

確かに私たちの意識の中には、いろいろな約束事にとらわれずに線を引きまくったり、色を塗りまくったりしたい衝動が常にどこかにあります。
私達はその本能的な行為を芸術表現として行っていこうとしているわけです。
そこには、本能の理性的な開放に加えて、新しさと普遍性をもった造形言語による説得力が必要となります。それらの総合的な力量が、感性であり、観察力であり、表現力と呼ばれるものなのではないかと思います。
そして、描くことによってのみ立ち現れるリアリティーを求めていくことが絵画の楽しさであると思います。

そのような絵画の世界を皆さんと一緒に探求していきたいと思います。

<2002 大学案内>
07/05/19

表現の原点!?

まだ小さい子供の、カタコトでの身振り手振りを交えた言葉に、はっと核心を衝かれた思いをすることがあります。
少ないボキャブラリーで知っている限りの単語を駆使して、また時には新しい言葉(の様なもの)を創ってまで伝えようとする様子には、驚くほど感動的で、強い、詩的な言葉(もの)があります。
そこには「表現」のもつ、大きな力の原点が潜んでいるように思います。

ここ(京都嵯峨芸術大学)での4年間を、油絵の具で絵を描くことをベースに置きながら、何を、どのように見つめ、何が見つけられるのか、何を伝えたいのか、そのために何をするべきなのか、をじっくりと考えながら過ごす、厳しくも楽しい場にしてもらいたいと思います。

<2004 大学案内>
07/05/19


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